歴史を感じる城址に、あの徳川家康も関係していた!
富津市は歴史の街。少し調べれば、遺跡や史跡、古墳からお城、戦時中の遺物に至るまで、いろいろな歴史に触れることができます。
富津市佐貫町にある『佐貫城址』は広範囲に渡り、この歴史の遺物が実際に存在したことがわかります。青い範囲がおおまかなお城の跡地、赤い範囲がおおよその『本丸』があった場所、緑の範囲が『東物見』です。
では入口に回ってみましょう。
この上が入口です。案内板にはこの『山城』の略図が描かれています。3年前にも一度来たのですが、その時よりも道が整備されて入りやすくなっていました。
このお城は戦国時代から江戸時代にかけて存在しましたが、明治4年5月、明治維新によって廃城となりました(明治元年、官軍に城明け渡し)。
この道を通って、多くの武士たちが登り下りしていたのでしょうか。興味深いことにこの佐貫城には、有名な歴史上の人物が何人も関係しています。真理谷氏、里見氏、足利氏、北条氏、そして1,590年にはなんと徳川家康のものになっているのです。
徳川家康のものになったのは、当時城主だった里見義弘が、豊臣秀吉の『小田原討伐(1,590年)』の際に遅れて出向いたために、秀吉様の怒り買ってしまった結果という、ちょっと寂しい理由だったようですね…。
さあ、気を取り直してご一緒に入城してみましょう! 誰かが迎えてくれますよ!
お迎えは”武士さん”です。合成ですけどね(笑)。
『ここが大手櫓門(やぐらもん)跡でござる。実際には後の時代に築かれたものではないか、という人もおるぞ。調べている人はかなり詳しく調査しているようじゃの。今の時代はお城のファンが多そうじゃのう!』
実際にはこの石垣の上に木造の櫓(やぐら)が建てられていました。そしてこの”武士さん”の後ろの方に石柱が建てられ、板でできた大きな門扉が存在したものと思われます。
では今はもう無い扉を叩いてみましょう。『頼もうッー!!』
本丸への道は、人が二人並んで通れるくらいの広さです。この左側は少し広めの段々になっていますが、そこは『三の丸』と呼ばれるこの佐貫城のいちばん外側の外郭部分です。その場所で兵が駐屯していたのでしょうか…。
本丸に通じる細い道は『虎口(こぐち)』と言うようで、「狭い道」「狭い口」という意味があるそうです。普段は城に出入りする軍勢の通り道で、戦が始まると相手の軍と対峙する場所となる、重要なポイントだったようですね。佐貫城は幾度か攻略され落城しているみたいなのですが、やはりこのあたりはかなりの兵が行き来したのでしょうか。
なんの意味があるのかわかりませんが、三の丸の奥の方へ続く道と、二の丸、本丸の方への道の分岐のようなところに、こんな木彫り(クマさん? 犬さん?)がありました。以前来た時にもあったので、ほとんど人が来ないここで、ずっとお勤めだったのですね。
うっそうとした木々の中を進んでいきます。当時はもっと開けていて、視界も良好だったと思われます。左側は意図的に山が削られて切り立った壁になっています。侵入者が容易に越えられないようになっていたのですね。
この道の右側も断崖になっていて、滑り落ちたら大怪我では済まされそうにないくらいでした。昔の人々が敵の侵入を防ぐために人力で力を合わせて、この壁を作ったのでしょう。
ここはお堀です。水を張らない堀なので『空堀』。これだけの深さを人力で掘ったのですから、人ってすごいですね! お堀は敵がこの堀づたいに侵入してくることを前提にして作られていて、敵が来たらこの上方から矢を放ったり、石を落としたりしたのだとか。約400年以上も昔、このあたりで実際に戦が展開されていたのかと思うと、目の前でそれが行われていることが再現されそうな気がして、不思議な心持ちになりました。
さあ、お堀を越えたらいよいよここは本丸です。”武士さん”は昔を懐かしんでいるようですよ。
『ここも植林の木や雑草だらけになってしまったが、拙者の後ろには城主が籍をおく本丸があったのじゃよ。何人も主が変わってのう。でも佐貫城はここいらでは名の知れた、いい城だったのじゃよ』と言ったかどうだか(笑)。でも、樹木が整然と植えられている平らな土地に、確かに城の建物はあったようです。
ふと、東の空を見上げると、まさに荒城の月…。当時のお侍たち、屋敷の住人、街の人々も、この月を眺めたのでしょうか。
本丸を過ぎて物見台に到着すると、そこからは東京湾、相模の国に沈む夕陽がありました。急に現代に戻った気持ちです。
見張りの者も城主も、ここから海を渡ってやってくる敵軍を見張っていたのかもしれません。実際、小田原討伐の際、里見軍はこの海の向こうまで行きましたよね。時代は異なりますが戦に敗れて房総を北上した時の源頼朝も、このあたりの景色を見たのかもしれませんね。
さて、佐貫城ふらり散歩、いかがでしたか? 今回歩いたところは全体の3分の1程度で、実際にはまだ奥が深いようです。もう一度この山城をもっと詳しく歩いてみたいと思います。
乞うご期待!
(Ken)