埋もれた山城『造海城』に人力掘削トンネルが!
富津はその海岸線の長さから山城の遺跡が複数残る貴重な場所です。元々は複数の町村が合併してできた街ですから、海に沿って縦に長く伸びているこの地形が遺跡や遺構を多く含む地域になったと言う方が正確かもしれません。
上の画像は富津市竹岡にある『造海城(つくろみじょう)』の古い絵図です(『山中の遺跡点描』のホームページからお借りしています)。この絵を見ると、大砲が設置されていることがわかります。
この城は紀元1500年ころから幕末に至るまで存在・機能した歴史の要衝、あるいは後代において江戸を守るために各地に配置された大砲の基地の一つのようです。この地を竹岡の郵便局長 荒井氏のご案内のもと、行ってきました。
国道127号線を館山方面へ下り、竹岡ラーメン『梅の家』を越えるて最初のトンネルのすぐ手前に『灯籠坂大師』と書かれた白い門のようなものがあります。ここをくぐると小さなトンネルがあり、それを越えて右に曲がって現れるのが…。
このトンネル。なんと人力で掘削されているようです。写真で見る富津市の歴史によると、昭和の初めの頃でしょうか、このトンネルをバスが通る姿が記録されています。現在では特にバイク乗りのあいだでは知られた存在になっているようです。
階段を上がったところにあるのがこの『灯籠坂大師』。弘法大師がここを通った際に人々が明かりを灯して待っていたとか。先ほどのトンネルの道などは後代のものなので、文豪夏目漱石や小林一茶などもここを通ったと言われています。挿入写真の石は、これで『イボ』をこすると治るといういわれがあるそうです。
灯籠坂大師のすぐ横にあるこの切通しが『造海城の虎口』つまり城門だったところのようです。ここを多くの武士や馬たち、金谷方面から上総湊方面の地への人々が行き交ったのでしょうね。ぼくもここを通って、城跡へ入って行きました。専門的なことは数多くブログやホームページで紹介されています。
明らかに人出によって切りだされた石。石垣を作るために並べられたのでしょうか。あまり風化を感じさせないその佇まいは逆にリアルな印象を与えます。
こんな高いところに自然にできるわけがない石垣。人の背丈と比べるとその高さがわかりますよね。古いものは1500年代のものだそうです。新しい部分でも幕末ですね。
いずれにしても、いつも通って眺めていた景色の中にこれらの遺構があったなんて、夢にも思っていませんでした。造海城のことについては専門的にご紹介されているサイトがあり写真も拝見していたのですが、自分の目で見るとこうも印象が変わるのか、と驚きを隠せませんでした。
帰り道、このトンネルの周りにはバイクの人々がそれぞれ自分のバイクと一緒に写真を撮っていました。自然造形美が人々の関心を引き付けることは百も承知ですが、人の手の加わった石垣やトンネル、しかもそれらが現代の考えでは思いもつかないような仕方で形作られていることを知る時、人はそこに立ち尽くしふと何かを考えるのでしょう。
この場所に関しては語り尽くせぬものがあります。ぼく自身、人がいなくなってから記念にここで写真を撮りました。この城跡に関しては後々、続編をと考えています。
参考:造海城 [埋もれた古城]、造海城(百首城・富津市竹岡字城山) [余湖くんのホームページ]
(Ken)