突起付きの石。日本でも珍しい特徴ある弁天山古墳
古来より人は移動手段として海を活用してきました。富津の成り立ちを語るとき、古代の人々がこの地を通り、住まい、生活し、そしていつしか消えていってしまった、その痕跡に触れずに進むことはできません。
この東京湾と海に突き出ている磯根崎。「弁天山古墳」と大いに関係があるようですよ。
こどもの頃、このすぐ脇の道を通って踏切を渡り大貫小学校へ通っていましたが、そのとき工事をしていた記憶が断片的にあります。この辺りで「とうじの木」と呼ばれる樹木の林が繁茂していました。数年がかりで整備されたとのこと。これにより今のようなはっきりとした形が見えているんですね。
隣は2階建ての公民館ですが比較するとその大きさがわかります。
近づいてみると建屋が見えますね。どうやらあそこが要のようです。
古墳のほうが当然古くから存在していたわけですが、おそらくここに意図的に「小久保藩」の藩庁(藩の役所)が置かれて機能していたようです。
よく見ると石室のあたりに鳥居が描いてあります。私にはこの辺りの歴史のつながりの詳細はわかりませんが、個人ブログや資料として閲覧できる情報から察するに富津市小久保にある『真福寺』にあった寺子屋と、後に小久保藩に設立された「盈進館(えいしんかん)」が、現在の富津市立大貫小学校へと続いているようです。
今思えば以前の富津市役所の大佐和支所は旧大貫小学校だったのかな。
では古墳を見に行ってみましょう。石の階段が設置され上部へ行くことができます。
登りきって左方に先ほど遠くから見えた建屋が直ぐ側に迫ります。
しっかりとした造りです。その理由がすぐにわかります。
立派な石でできた石室です。とても大きく重そうです。
詳しくはこちら。
この突起が大変珍しいのだそうです。ここで始めの写真を思い出してください。あの磯根崎の辺りからこの突起に縄を掛けて運んできたと言われています。
どれだけの人数と時間がかかったのでしょうか。どのように運んできたのでしょうか。どうやって加工したのでしょうか。そして誰が埋葬されていたのでしょうか。たくさんの疑問がわきます。
きれいに削り取られ時の流れを感じさせないほどの保存状態です。削っている姿、運んでいる姿が目に浮かぶようです。突起のない石はどうやって運んだのかな。
古代の人々の知恵は計り知れません。
方墳部に移動してみました。この古墳の大きさがだいたいイメージできると思います。
頂上からは家並みや、きれいに晴れていれば東京湾や対岸の三浦半島などが見えます。 手前側の敷地にはかつて木造の大佐和支所がありました。海岸に出れば富津岬も見えます。向こうに見える磯根崎のあたりから古代の人々が権力者を埋葬するためにあの石を運んできたのでしょう。
富津市には決して大げさではなく大小無数とも言える古墳が存在します。その一つ一つを確かめてみるのも昔の風に触れるいい機会かもしれません。
(Ken)