吾妻神社の祭礼『馬出し祭り』、その由来に迫る
毎年9月17日に行われる『吾妻神社の馬出し祭り』。今年も行われました。
『日本武尊(やまとたける)』と『弟橘媛(おとたちばなひめ)』にまつわる故事にちなんで行われるもので、毎年、大勢の人出で賑わいます。
遠征から帰るときに相模の海から東京湾を渡ろうとした一行を『海神』が起こした大嵐に遭い、その嵐から『日本武尊』を守ろうと、『海神』の怒りを鎮めるために自ら荒れ狂う海へ身を投じた…。その遺品の一部がここ富津市の岩瀬海岸に流れ着き、それを見つけた馬が口にくわえて西大和田にある吾妻神社の階段を駆け上がった、という言い伝えがあるそうです。
ちなみにその遺品は『弟橘媛』が使っていた『櫛』であったという話もあります。
祭りに関しては、ネット上でも検索すると調べることができますし、君津市や木更津市の図書館に行くと、関係する書物を見ることができます。ここ富津市に『古事記』や『日本書紀』に関わる伝説があったり、その祭りがあったりするのは興味深いですね。
それにしても、この神輿を見てください。これは子供たちが担ぐ神輿ですが、細かいところに至るまでよく作られていますね。傍らでは子供たちが日影で休憩中。一生懸命担いだのでお腹も空いて喉も渇くよね。
これは、子供たちの神輿の上に飾られた『大鳥』。『鳳凰』とも言うのでしょうか。立派な作りですね。大人が担ぐ神輿に飾られているものよりも作りこまれているような気がしました。
神輿の上に、なぜ『大鳥』があしらわれているのか、いろいろ調べてみましたが、決定的な答えは今のところ得られていません。『大鳥』=『鳳凰』なのかもわかりませんが、厳密にはどうなのでしょうね。
『鳳凰』をよく見かけるのは、実は私たちがいつもお世話になっている『1万円札』の裏側に描かれているもの。神輿の『大鳥』と比べるといささか地味な感じがしますよね。
この岩瀬海岸に、この沖合で嵐のなか身投げした『弟橘媛』の遺留品が流れ着いたとされています。記録をよく見てみると、弟橘媛が身投げしなくてはいけなかった理由のほうがとても悲しいです。
日本武尊が遠征の帰りに海を渡ろうとしたわけですが、「『こんな小さな海などひと跳びだ』と豪語した日本武尊が神の怒りをかった」という神話上の事実が『日本書紀』に明記されているそうです。つまり、彼がおとなしく海を渡っていれば難なく渡りきることができ、誰も命を落とさずに済んだのかもしれない、ということでしょうか。
神話ですけどね。
『弟橘媛』の心を多くの人たちが慮ってきたのでしょう…。
富津市富津の『富津海水浴場』のすぐそばには石碑があります。
『弟橘媛の布が流れ着いたところ…』といったことが書かれています。案内板に近づいてみると…。
布が流れ着いただけではなく、第二次大戦の終戦直後にアメリカ軍が初上陸して星条旗を掲げたという、歴史的な地点でもあったことも書かれています。本土初上陸ですよ。この記事の取材で初めて知りました。
『君津市立中央図書館』の一階奥に郷土史のコーナーがありますが、その中にある富津関連の蔵書を紐解くと、アメリカ軍がまさにこの海岸に上陸するところを撮影した貴重な写真を見ることができます。ぜひ足を運んでみてください。
この富津市には様々な歴史やそれにまつわるお話が意外とたくさんあります。この機会に『歴史探訪』をしてみてはいかがでしょうか。
(Ken)